オリオンの下で
「協力しなさい」
「は?」
そんなこんなで残暑厳しい九月の頭。気温の高さと慣れない生活で脳をやられたのか、理解不能な言葉が聞こえてくる。
「だ〜か〜ら〜」
直後、ソイツは俺の襟首をひっつかみ、激しくシェイクし始めた。
「あたしの生活に協力しなさいって言ってんの。あんたに色々ばれちゃった以上、あたしはあんたを消すか取り込むかしなきゃいけないのよ。あたしのありがた〜い慈悲のお陰で生き延びられるのに、何、あんた?それとも社会的にも人間的にも抹殺されたいわけ?」
ガクン、ガクン、ガクン、
世界が激しく歪む。嗚呼、脳味噌がグルグルグルっと。
ちょっと、これは洒落ならん。
「と、取り敢えず落ち着け。酔う。すんごい酔う!!」
ガクガクガクガクガク
――加速した!?
「嫌よ、あんたが首を縦に振るまで止める気なんてないんだから。」
先程から既に、何度も首を縦に振らされてるんですけど(自分の意志とは関係無く。)なんか、頭がぼうっとしてきた……。
「洗脳よ、洗脳。ほら、早く返事しないと脳震盪で逝くわよ。」
何ちゅう物騒な事言うんだ、この小娘は。仕方無く俺は口を開く。(そうでもしないと本当にこのまま逝かされる事になりそうだからな。)
「き、協力って、具体的、に、何を、すれば、いいん、だ、?」
振動のために何とか途切れ途切れの日本語を紡ぎ出す。直後、
ピタッ
世界の揺れが止まる。視界がグルグルとワールド・オブ・ゴッホ。
「協力する気になった?」
「まず、俺の質問に答えろよ…。」
「…――ッ。」
シェイキング、再開。
「わー、許して。もう赦して。分かったから。何でもするから。」
これはたまらん、と気がついたら俺は恥も外聞も無く叫んでいた。
端から見ると気の強い女子にカツアゲされるチキンな男子生徒の図であろう。
だがこの時、俺の五感は告げていた。いや、五感どころかこの時限りで目覚めた第六感までもが俺に警告していた。
お前の命が危ない、と。
世間体等気にしている時ではない、と。
男のプライド?そんなもの、犬にでも食わせてしまえ、と。
再び揺れが止まる。解放された俺は思わず暑い日差しに灼かれた午後のアスファルトの上にへたり込んでいた。熱いけど、それに反応する気力もない。
「も、もう駄目だ……完全に、加速度病…うっぷ。…俺が死んだら…火葬にして、日本海の波間に葬ってくれ…」
だが、ソイツは、そんなマジで可哀想な俺(!!)を気遣う事もなく屈み込んでにんまりと顔を寄せてきた。
「…本当に『何でも』するのね?」
俺は力無く頷いた。と言うか、項垂れた。
しかし!!
その場しのぎで首を振ったのは間違いだったのかもしれない。本当に命が惜しいのならば、迷わずこの場を逃げ出すべきだったのだ。
放課後の校舎裏にけたたましく鳴く九月の蝉の声はこれからの生活への警鐘を鳴らしていたのか、それからと言うものの、俺の人生設計は完膚無きまでに完全に破壊され、その上に築かれた生活は破茶滅茶で、無茶苦茶で救いようもなくて、俺はいつも苦労の連続、俺は溜め息ばかりついていたような気がする。
でも、俺は――
そんな、天ヶ瀬夏樹との生活をどこか、気に入っていた。


第一章「ジャージとドテラとカップ麺」
ふと思う。
何故自分(槙島悠太 17歳 ♂)はこんな所で、こんな格好で息を切らしているのか、と。
右手には見ず知らずの人間の小説の原稿の束と、ラー油の入った小瓶。
左手には瓶一杯の梅干しとルービックキューブ。
ズボンのポケットには溢れんばかりの無数のビー玉。
端から見ればなかなかシュールな光景に違いない。
しかし、目の前で唸っているのはそれ以上に不可解極まりない奴であった。
「遅かったじゃないの!」
「はぁ、はぁ……。」
確かに、こんな格好で息を切らしていたら不審な奴なのかもしれない。
しかし、それを命じた奴が
「キモい格好して、女の子の前で『はぁはぁ』してんじゃないわよ。」
などという権利があるのだろうか。
しかも、
「あんたがちんたらしてたから、もう麺がブヨブヨなのよ、ブヨブヨ!!何であたしがこんなもの食べなくちゃいけないのよ!」
必死で走ってきた俺に理不尽な文句をぶつけてくる始末。
何で俺がこんな目に……。

時間を遡る事、数時間――

引っ越しのトラックがここ、マンション『ヘヴン』(何ちゅう名前だ…)の前に着いて、俺は自分の荷物を部屋に運んでいた。もっとも、荷物は自分の分しかないのだが。
事の始まりは夏休みも始まって間もない七月の暮れ。高二の夏休みに心踊らせている俺に告げられた、親父の言葉であった。
「海外への転勤が、決まったから。」
「へ?」
突然であった。唐突であった。いきなりであった。
俺は状況が暫く把握できずに脳内を三点リーダーが駆け巡っていたのを覚えている。
転勤先はモルドバ。(何処だよ…)地図帳を引っ張り出して探してみるとルーマニアの隣国のようである。(マジで何処だ…?)
何故その様な微妙なところに転勤するに至ったのかは果てしなく謎だが、親父の転勤が左遷ではなく、兼ねてから願ってた昇進である以上、息子として反対するのには後ろめたさがあった。
しかしながら、この住み心地の良い極東の島国での生活を手放すのは惜しい気がして俺は残ると言ったらば、親父は母親を連れて、二人して行ってしまった。
俺にこのマンション一部屋を残して。
それまで住んでいた家は広いから、俺一人に管理を任せるのは無理だと判断したのだろう。(息子としてその程度と判断されたのはは些かショックだ)今は貸家にしている。
ってなわけで本日からこのマンションにお世話になるのだから、これから住まう402号室に荷物を運び終え、アリクイマークの引っ越し屋さんの方々を見送った後、俺は同じ階の方々に挨拶回りに行ったのだ。
この辺りからだろう、俺の世界が狂いだしたのは。
最初に挨拶に赴いたのは405号室の保津さんのお宅だ。チャイムを鳴らすと出てきたのは一人の老婆。名をウメコさんと言うらしい。
引っ越しの際に親父に持たされた蕎麦を抱えて訪れた俺は、何故かその五分後、畳の上で茶を啜りながらウメコさんの少林寺拳法の演武を見る事になり、お礼に瓶一杯の梅干しを貰ったのであった。

次に訪れたのは401号室の小倉さんの部屋。チャイムを鳴らすと奥から聞こえてきたのは「待ってくれぇ〜ッ!!後、ちょっとだから!!ちょっとで仕上がるから!!」という悲痛な叫び声。
「……。」
もう一度、押してみる。
「うぎゃぁぁぁ。頼むから、打ち切りだけは勘弁してぇぇぇ!!」
先程にも増して痛々しい悲鳴。
なんなんだ、いったい?
暫く呆然と立ち尽くしていると、いきなり、凄い勢いでドアが開いた。
「ずごぉっ!?」
額に外開きのドアが直撃し、俺は後ろに倒れこむ。
そして、目の前に出てきたのは目の下にくまの出来た中年太りのオジサン。
「それじゃあコレ、編集長に宜しく御願いしますッ!!」
目の前に突き出される原稿用紙の束。
彼は俺の腕の中にそれを置くとすぐに部屋に引っ込んでしまった。
ガチャリ
そして扉が閉ざされる音。
「……。」
後に聞いた話では彼は小倉甚五郎(43歳未婚)と言い、売れない小説家だそうだ。
原稿の取り立てじゃなくて、引っ越しの挨拶に来たんだけどな…。(と言うか、誰が来たかぐらい、確認しろよと思う…。)

仕方なく彼の原稿を持って、新聞受けに引っ越し蕎麦を差し込み、次に訪れたのは加茂さんがお住まいの401号室。
この家は比較的まともだったと思う。普通に挨拶して、軽く世間話をして、引っ越し蕎麦を渡して、と普通にこの家の方は接してくれたのだから。
この部屋の住人は五人家族らしい。順に平治さん(47 普通の会社員)美弥子さん(?? 専業主婦)歩美ちゃん(中二 ギャル)武クン(小五 口の減らないガキ!!)照貴クン(赤ちゃん 可愛い。)で、今日は平治さんさんが仕事で、歩美ちゃんが部活で部屋を出ていた為、俺は主に美弥子さんと武クンと話をしたのだった。
(照貴クンとも話がしたかったのだが、残念ながら彼のボキャブラリーが「バブー」のみだったのでそれは叶わないままに終わった。)
と言うわけで
部屋を出たときには何故かルービックキューブを持っており(武クンにルービックキューブで決闘を挑まれて、勝ち取った戦利品)、負けた腹いせなのか、ポケット一杯にビー玉を詰め込まれていた。

斯くして俺はこの様なシュールな姿格好になったのだが、
問題は此処からだった。
403号室、天ヶ瀬。
加茂さんのお宅で挨拶がまともに済んだ俺は結構調子に乗っていたのだ。
まさか、チャイムを押した途端、あんな奴が登場するなどとは微塵も思わなかったのだ。
ジャージの上にドテラを羽織ってカップ麺を抱えている美少女など、この世に存在するなどとは微塵も考えたことがなかったのだ。
身長は俺より拳一つ分ほど小さく、髪は腰に届くかと言うぐらい長い。
顔のラインはシャープで目元もすっきりしている。頬の色は陶器のように白い肌の上に仄かに赤みがさしており、唇は桜色にふっくらと、男が見たら誰もが認めるであろう美少女。
なのに、ジャージ!
なのに、ドテラ!!
なのに、カップ麺!!!
俺は呆気にとられて、しばらく言葉が出なかった。
やがて先に口を開いたのは目の前の少女。
「…何よ、あんた。あたしの顔に何かついてんの?」
トゲのある言葉とともに俺を深い夜の色をした眼で見てくる。そこで俺は忘れかけてた第一声を思い出して口を開いた。
「き、今日から隣の402号室に引っ越してきた槙島悠太といいます。ひ、引っ越しの挨拶に来たんですけど……」
「んぁ?引っ越し?」
目の前の少女はいかにもかったるそうな口調で俺をぎろりと睨む。続いてチッと舌打ち。
な、なんなんだ、コイツは?
とりあえずこうしてても仕方がない。この部屋の責任者(この娘の親御さん)ぐらいには挨拶しといた方が良いと判断し、声をかける。
「あ、あの…。」
「あ゛?」
ちょっと。怖いよ、この人。。
愛と勇気だけが友達さっ!!自らを鼓舞しても上手く口が動かない。手汗もかなりキツいのだ。シャツが汗でぐしょぐしょになっているのは決して夏だからではない(寧ろ空気は凍りつき、俺の全身は冷や汗をかいているのだ。)
「えっと……。」
「何よ!!ボサッとした奴ね。言いたい事あるならハッキリ言えば?」
喉に引っかかってる言葉をやっとのことで引っ張り出してくる。
「お家の方は……?。」
「あたし、一人暮らしだけど、何?」

えっ?
マジで?あなたお一人ですか?
御一名様ですか?独り暮らしなのでせうか?御家族の方とは別居中なのでありますか?

「……。」
「……。」
空気が凍りつく。気温が一気にマイナス12.3℃ぐらいにまで下がった気がした。
道は、絶たれてしまった。親御さんを呼んで普通に挨拶して何とか終わらせようと思ってたのに。
辺りを沈黙が支配する。街の喧騒すらとても遠く、同時にこの沈黙は俺に強烈な重圧としてのっかってきた。
嗚呼、神様。ワタクシをお助け下さい。身の憂さをなかなかなにと石清水思ふ心は汲みて知るらむ。
やがて、重々しく止まっていた沈黙を破ったのは彼女の方だ。
「おい、おまえ。」
「は、はひぃ!?」思わず裏返った。
「えっと…おまえ!!…だから……おまえ!!……。」
彼女は俺を指差してあれコレと考えては「おまえ!!」と叫び、首を捻りを繰り返している。はは〜ん、なる程。
俺は助け舟を出すことにした。
「槙島悠太ですが…」
すると彼女ははっとしたような顔になり、ポンと手をついた。
何か、怖そうな奴だと思ったけど、わざわざ名前を覚えて呼ぼうとしてくれるなんて、意外と律儀でいい奴なのか?
「そうそう、悠太だ。……蕎麦はどうしたのよ?」
前言撤回。
そしてそこで、俺は初めて自分の失態に気がついたのだ。
蕎麦は先程の三軒で手持ちの分は全て配り終えてしまっていた。部屋にはまだ残っているのだが、今更取りに戻るわけにもいくまい。先程の舌打ちはそういう意味だったのか。
「何よ、賄賂も持たないで引っ越しの挨拶に来るなんていい度胸じゃないの。」
「いや、蕎麦を賄賂呼ばわりするのは色々と問題がある気が…」
「言い訳なんて聞く気なんかないんだからねッ!」
いや、言い訳じゃないんですけどね。
と言うか、図々し過ぎませんか、あなた?確かにこちら側の不手際ではありますが、こちらの言えた事では御座いませんが、貰う側がさも『貰って当然の権利!!』みたいなのはどうかと思うのですが。
……という言葉は敢えて飲み込んでおく。引っ越して早々に御近所といざこざは起こしたくないのだ。
というわけで、大人しく蕎麦を取りに行くことにする(今思ったんだが、ここまで蕎麦でムキになる奴ってどうよ?)
で、部屋に戻ろうとすると、
「あ、待って。」
まだなんかあんのかよッ!!
振り向くと小さな小瓶を右手で摘んでプラプラ振ってる彼女がいた。
「な、何…?」
俺が「待った」をかけられた理由はこうだ。
ラー油、買ってきて。
彼女はいつもカップ麺にラー油を入れる言う。
ラー油抜きのカップ麺は食う気はない。
今回、お湯を注いだ後にラー油が切れている事に気がついた。
だから、買ってきて。
近くのコンビニで。
金は立て替えといて。
……要は、パシリである。
「何で俺が――」
ピーッ、ピーッ、ピーッ、
彼女の部屋の奥からキッチンタイマーのアラーム音が聞こえてくる。
「ほら、早くして!!麺が伸びちゃう!!」
「ハァ…。」
俺は逆らう事も怖くて出来ず、引っ越しして間もない不慣れな土地で全力疾走し、漸くコンビニを見つけてラー油の小瓶を入手したのだ。
ちなみに俺は、部屋にこの奇妙なアイテム達を置いて行きたかったのだが、部屋に寄ろうとすると「早くいかんかい、ヴォケッ!!」と背後から罵声が飛び、こいつらも装備したまま走る羽目になった。(絶対置いていった方が早かったのに。)

斯くして、槙島悠太とそれを取り巻くご近所の生活は始まったのであった。
まだまだ暑さ厳しい、八月の暮れの午後の事であった。
今回はここまで。2章をお楽しみに。
前へ戻る次へ inserted by FC2 system